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新開昌彦 / 記事バックナンバー(2月1日〜2月5日 カンボジア・ベトナム視察) |
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福岡県国際交流推進議員連盟の視察カンボジア・ベトナム
私は、福岡県国際交流推進議員連盟の副会長を務めています。昨年、国連ハビタット福岡事務所(アジア太平洋地域事務所)が福岡に誘致されているにもかかわらず、その活動をあまり知らない。ということで、12月議会にハビタット福岡事務所に講演をお願いし、議会、県庁職員に活動の一端を説明していただいた。その時、カンボジアやベトナムで復興支援活動を行っていることを知り、是非その国の実態を知ろうということで計画をされました。
視察期間 ’05/2/1〜2/5
視察場所 カンボジア・シェムリアップ ベトナム・ホーチミン
参加者 公明3 自民党県議団1 緑友会・新風3 県政クラブ3 自民党議員会3 共産1
主な日程
2月1日
------11:00 福岡空港発 VN961便
------14:10 ホーチミン着
------16:30 ホーチミン発 VN829便
------17:30 シェムリアップ着
------18:20 ホテル着
2月2日
------9:30 バンテアイスレイ小学校訪問
------10:00 バンテアイスレイ遺跡視察
------13:00 スナーダイ・クマエ孤児院視察
------14:45 アンコールワット遺跡視察
------16:45 プノンバケン遺跡視察
2月3日
------9:15 キリングフィールドに献花・視察
------10:00 アキ・ラ氏の地雷博物館視察
------13:30 シェムリアップ発 VN826便
------14:30 ホーチミン着
------16:00 戦争証跡博物館視察
2月4日
------10:00 「クチの地下トンネル」視察
------14:30 「若者の家」視察
------15:30 児童教育訓練センター視察
------23:30 ホーチミン発 VN940便
2月5日
------6:35 関西空港着
------10:00 関西空港発 NH1703便
------11:10 福岡空港着
2月1日
福岡に今年最大の寒気団が襲い、気温がぐんぐんと下がるなか、11時発のベトナム航空便でベトナム・ホーチミン市へ向かう。
ホーチミンで乗り継ぎ、カンボジア・シェムリアップへ。ホーチミン―シェムリアップ間の飛行時間はわずか1時間。
上空から見るシェムリアップは赤土に覆われ、全体に赤茶けた印象だった。
日本との気温差は30度以上。飛行機から降りた途端に熱気が襲う。
【写真 新聞紙を日除けに使う飛行機】
飛行場の滑走路脇には、シアヌーク殿下と王妃、現国王の殿下の次男の大きな写真が飾られていた。
後で現地ガイドのソピア氏に聞いた話では、カンボジアは民主化後の現在も王国。
ただし、国王の権限はほとんどなく、日本の象徴天皇の制度に似ているそうだ。
【写真 空港に掲げられている国王の写真】
18時過ぎにホテルに入り、市内レストランで食事をとった後、市内を少し歩いた。みやげ物を売る店やインターネット・カフェと書かれた看板を掲げる店、薬局、理髪店と思われる店舗などが立ち並ぶが、その前にはたくさんの屋台が並んでいる。バスを降りると、たちまち物乞いの子どもに声を掛けられ、カンボジアが内戦終結後、まだ日が浅いことを再認識させられた。ただ子ども達の目が虚ろで声にも力がなかった。
2月2日
バンテアイスレイ小学校
日本も出資している現地法人が建設したバンテアイスレイ小学校を訪問した。
2003年度の実績で、1年生から6年生まで生徒数は771人。そのうち女子生徒が339人だ。
教科は算数、国語、理科、社会。授業風景を見せてもらった。
みな字(クメール文字)が上手で丁寧。校長の話によると、上の学年に上がるための試験があるという。
【写真 みんなとてもきれいな文字を書いていた】
カンボジアのインフラ整備は全くこれからの状態で、校舎にも電気はきていなかった。
日当たりの悪い校舎は、かなり暗い。天井に穴が開いている教室もあった。
【写真 学校の実態表が職員室の黒板に】
【写真 どこのくにでも子どもはとてもかわいい】
カンボジアの小学校は午前、午後に分かれ、生徒はどちらかに行くようになっているそうだ。小学校に向かう途中、貧しそうな家々が建つ村を通ったが、学校に行けない子どもも多くいるようで、家の手伝いや農作業をしている子どもの姿を多く見かけた。学校に通い勉強をするという、日本の子どもにとっては当たり前のことが、どれほど幸せなことかと考えた。
アンコールワット、バンテアイスレイ遺跡、プノンバケン遺跡
カンボジアの宗教は、時々の政権(王様)につれて大乗仏教、ヒンドゥー教、小乗仏教と変化してきたそうだ。
今回、訪れた遺跡はすべてヒンドゥー教時代の遺跡。なかでも有名なアンコールワットは世界遺産に登録されている巨大遺跡だ。
バスで深い森の中を走りぬけると石の巨大な遺跡がいくつも現れる。その最大の遺跡がアンコールワットだ。
天空にそびえる65メートルの尖塔、急斜面の大階段、大回廊、本殿まで続く540メートルの長い参道が、
すべて巨大な石積みで造り上げられている。
【写真 森林の中に忽然と現れる巨大遺跡アンコールワット】
回廊に刻まれたレリーフは、生き生きとして感動した。
世界中がこの遺跡の保存や復元、発掘に取り組んでおり、もちろん日本の姿も見られた。
「アンコール遺跡は、遺跡自体の中に往時の人たちの願いや祈りが塗り込められている。
バイヨンの四面尊顔には喜び、哀しみ、怒り、怨念など、今の私たちと同じように人間の様々な感情が映されている。
アンコール・ワットの尖塔、バンテアイ・スレイの美しい女神と切妻壁のヒンドゥー教神話のレリーフ、
枚挙にいとまがないほど往時の人々のメッセージが届けられている」
【写真 バンテアイ・スレイの女神】
(石澤良昭・上智大学教授/アンコール遺跡国際調査団団長、上智大学アンコール遺跡国際調査団のホームページより)。
内戦の名残として、遺跡にはいくつか銃痕が残っていた。
スナーダイ・クマエ孤児院
ポルポト政権下で生死をさまよい、18歳の時に難民として来日、苦学の末に東海大学を卒業後、
故郷のカンボジアに戻ったメアス・トミーさんが開いた孤児院、それがスナーダイ・クマエ孤児院だ。
日本人の奥さん、メアス・博子さんに案内していただいた。
【写真 メアス・博子さん】
スナーダイ・クマエとは「カンボジア人の手によって」という意味だそうで、子どもたちへの教育を通してカンボジア人自身による
自立への願いが込められている。
現在、24人の子どもたちがここで生活し、日本語を含めた教育を受けている。
意外だったのは、子どもたちが「内戦孤児」ではなかったこと。実は「内戦孤児」は既に今の親の世代になっており、
新たな経済孤児を生み出しているのが実情とのこと。
カンボジアでは平均で一家庭に10人の子どもがおり、経済的に両親は子どもたちを養うことができないケースが多い。
スナーダイ・クマエには両親健在の子、父か母が死亡している子、両親ともいない子が混在している。
女子11人のうちの7人は家庭で親から虐待を受け、保護された少女だという。
【写真 メアス・博子さんの子息と日陰でしばし歓談】
私は、日陰でバスの絵を描いている博子さんの子息と話をした。「どうしてバスを描いてるの。さびしくない。」と聞くと
「さびしくないよ。また、お父さんのところに皆でバスに乗っていくんだよ。」と答えてくれた。
帰国後、メアス・博子さんからメールをいただいた。その中にあった次の言葉が印象的だった。
「カンボジアは長い内戦の中で知識人がほとんど抹殺された特殊な国ですので日本の戦後と比べると発展の歩みは遅くなると思います。
今の子供達にどういった教育を行なうかということが今後の国づくりに大きな影響を及ぼします。
(中略)全ての子供の人生を背負うことはできませんが、人生のうちの数年を一緒に過ごす縁があった以上、
私たちができるだけの環境を彼らに提供していきたいと考えております」。
2月3日
キリングフィールド
1975年から79年までの間にポルポト率いるクメール・ルージュ(赤色クメール)の手によって
一説には300万人以上の人が殺害されたといわれている。
【写真 残酷・キリングフィールド】
残酷な拷問と大量処刑の場所はキリングフィールドと呼ばれ、カンボジア国内のあちこちにあったという。
ポルポト政権下で犠牲になった人々の頭蓋骨が小乗教寺院の一角に祭られていた。献花、合掌し、冥福を祈った。
私は、この視察で一番印象に残った場所だった。
【写真 みんなで冥福を祈った】
アキ・ラ氏の地雷博物館
国連平和維持軍に協力し、1992年から地雷の撤去をし、国連が撤退した後もボランティアで地雷撤去作業を続けている
アキ・ラ氏の手づくり「地雷博物館」。
【写真 アキ・ラ氏と一緒に】
同氏は自らの手で2万個にも及ぶ地雷を撤去。
20年にわたる内戦時代に使われた、あらゆる形態の地雷や銃、手榴弾などを展示している。
同時に、地雷によって負傷したり孤児になった子どもたちを預かっている。
【写真 地雷博物館】
アキ・ラ氏自身も、5歳のときにクメール・ルージュに両親を殺害され、クメール・ルージュの手によって兵士として育てられた。
初めて銃を手にしたのは10歳のとき。その後、ベトナム軍、カンボジア軍にも参加、戦場に地雷を埋める作業も経験している。
「カンボジアの地雷問題について多くの人に理解してもらいたい」との願いと
「今まで地雷を埋めてきたことの償い」として博物館を維持している。
カンボジア、タイの国境付近にはいまだに600万個もの地雷が埋まっているとの推定もあり、地雷問題の深刻さに胸が痛んだ。
子どもが地雷によって手足を失うと、何度も地獄の苦しみを受けなければならない。
それは、成長とともに骨が伸び、痛みから2回、3回と手足を切らなければならないからだ。という話を
ガイドのソピア氏に聞いた。地雷はまさに悪魔の兵器だ。
シェムリアップの街は、水道、電気、ガスなどインフラ整備が全くといっていいほど進んでいない。
水は地下水(井戸)、電気は自家発電、道路の舗装もされていない。
こうしたインフラ整備には莫大な資金が必要となるため、海外の協力が不可欠だ。
日本のODAを使った水道工事が市内で進んでおり、現地の人も期待をしていた。
戦争証跡博物館
シェムリアップを後にし、空路ベトナム・ホーチミン市へ飛んだ。
同市での初めの訪問地は戦争証跡博物館。1960年代初頭から1975年4月30日まで続いたベトナム戦争では、
300万人近くのベトナム人と58,000人以上の米兵が死亡した。
【写真 博物館での説明に気が重くなる】
北爆、枯葉剤などの悲惨な歴史を、本物の兵器、写真、資料などが生々しく語りかけてくる。
欧米からの訪問者も多い。極限の状況の中で、人間がどこまで恐ろしく愚かな行為に堕すのか、皆、眉をひそめて見つめていた。
ガイドのダン君の話。「ベトナム戦争を含め、ベトナムでの戦争は、すべて民族の独立のための戦争でした。
独立を果たし、今は世界の中で協調して生きていくことを学んでいます」。
ホーチミンの街は、高度経済成長時の日本の1960年代のような活気があった。
「ホンダ」が代名詞のバイクが、魚の群れのように洪水となって道路を走っている。
【写真 ノーヘルで疾走するバイクの群れ】
二人乗り、三人乗りは当たり前。バイクがなければ生活ができないという。
しかし、毎年、バイクでの交通事故死者数は1万人を超えているそうだ。
2月9日の旧正月を前に、街行く人々のあわただしさもひときわだったのかもしれない。
2月4日
クチの地下トンネル
ホーチミン市から車で約1時間半。
戦争時代、ベトコンの拠点があったクチの地下トンネルを視察した。
【写真 地下トンネルの模型】
クチの地下トンネルは延長250キロメートル、30年間も手で掘り続けられたものだという。
生活と戦争が、このトンネルの中で日常的に同居していた。
狭いトンネル内に、やや広くなった救護室、食堂、作戦室などもところどころにある。
【写真 観光用のトンネルの入り口】
本物のトンネルの入り口は、私などは入れないほど小さく、枯れ葉に隠されていて気が付かない。
米軍の侵入を防ぐための落とし穴などのわなが、張り巡らされていたようだ。
観光用のトンネルに入った。たった20mのトンネルは腰を屈めて終始圧迫感を感じながら歩いた。
汗だくで出口にたどり着いた。当時、ベトコン達が主食にしていたタロイモとベトナム茶をいただいた。
若者の家
開発途上にある国々のストリートチルドレンなど路上生活を送る青少年や、恵まれない子どもたち、孤児、虐待の被害に遭っている子どもなどを
支援する非営利団体「国境なき子どもたち」(KnK)が、ホーチミン市で運営する施設。
【写真 説明をするKnKの大竹綾子さん】
「男子の家」(15人)、「女子の家」(10人)があり、保護したストリートチルドレンに安定した生活と教育、
職業訓練の機会を提供している。ここでも日本人女性の大竹綾子さんがオペレーションディレクターとして活躍していた。
【写真 若者の家で歓待を受けた】
入所している子どもたちは、ヘロインなど薬物を使用していたものも多いというが、私たちに接する態度は、どこまでも明るく、
また礼儀正しかった。子どもの代表は「ここで教育を受け、社会に役立つ人間になりたい」と決意を語っていた。
KnKは1997年に設立され、ベトナムのほかカンボジア、フィリピンでプロジェクトを運営。
国連ハビタットをはじめ個人、企業、各種機関の支援を受け、3カ国で600人近い青少年へ支援をしている、という。
児童教育訓練センター
観光客らからストリートチルドレンの姿を隠すためか、政府が路上から子どもたちを排除し集めた施設だ。
【写真 心なしか元気がない子ども達】
若者の家のような自由さはなく、子どもたちもどこか寂しげで投げやりだ。活気があふれていた町並みと対をなす、
ベトナム社会の影の部分を見た思いがした。しかし、ここの子どもたちにも教育と職業訓練の機会は与えられていることが救いに思えた。
カンボジア、ベトナムに共通していたのは、
戦後の荒廃からの復興、経済的貧困からの脱出を、まず教育からスタートしていることだった。
復興を遂げ、豊かになった日本の子どもたちが抱えるいじめや不登校、薬物依存、無気力などの現状に思いをはせ、
日本はもう一度、教育とは何かを見直し、子どもが真に幸福を享受できる社会を目指すべきだと、考えさせられた。
また、日本人も両国の復興のため頑張っていた。特に女性が力強くリーダーとしてカンボジアでもベトナムでも
頑張っておられる姿に感動した。現地の皆さんの信頼を勝ち得ていた。この子ども達のために、この国のために
人間として何ができるのかを考えていた。
彼女達の目は、誇りに満ち輝いていた。
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